素問・霊枢報告
報告霊枢勉強会報告 令和三年六月
講師: 日本鍼灸研究会代表 篠原 孝市 先生日時: 令和3年 6月 13日(日)
会場: 大阪府鍼灸師会館 3階 出席者: 会員21名(うちWeb14名) 一般15名(うちWeb18名) 学生9名(うちWeb9名)
『黄帝内經靈樞』
九針十二原第一
第五章(一部を抜粋)
故に曰く、皮肉筋脈、各々處る所有り、 病、各々宜き所有り、各々形を同じくせず、各々以て其の宜しき所に任ず。
(校注)
○同書「小鍼解」はこのように言う。
「皮肉筋脈、各々處る所有り」とは、經絡おのおの主る所を有るを言うなり」
*「皮肉筋脈」なので、そこに経絡を持ってくるこの解釈は少し無理がある。ここでは、ひとのからだを、皮、脈、肉、筋、骨というように皮膚の表面から深部へ解剖学的にではなく構造的に深さを五段階に分けて、その各々の深さに応じて病が出るのだと言っているのだと私は思う。
そして「各々形を同じくせず」というのは、各々病態が違うということだと思う。
*「各々以て其の宜き所に任ず」という文章を歴代の注解者は「九鍼」のことだと言う。「九鍼」というものを、からだの深さにつなげている。
*私たちは病気を見る時に、たとえば腰の痛みに、どこに鍼を刺すのかと考える。かぜの症状がある時にどこのつぼを処方すれば良いのかと考える。つまり、つぼ治療というものになるのである。中国医学が、最近行われているつぼ治療と根本的に違う点は、病態についての考察が常にあるということである。一つはからだの深さに対するもの、これは「皮・脈・肉・筋・骨」で表される深さのことである。どの深さに病があるかということである。それから経脈流注のどこに病があるかということである。経脈流注が病態を捉える一つの道具になったものと思う。他には、目にも見えない「五藏」である。五蔵(五藏)は手に触れることも、目に見ることも出来ないが、幸いなことに表側に様々な症状が出る。たとえば目が見えなくなる、耳が鳴っている、まったく匂いを感じない、味を感じないというような不具合によって五蔵の深い部分のことがわかる。経脈はからだの浅い部分であるから、皮膚の表面にものが出るということがあり得る。これは後に経脈をみる脈診、人迎寸口診や六部定位脈診などになる。五蔵をみる脈診は六部の左右の寸関尺診というものがある。このようにして皮膚の表面のものをみていくということになる。ここでは皮肉筋骨というからだの深さの問題を出してきたというのが重要であろう。ここの文章は病というものはからだの深さにもとづいて考えるべきだというふうに見た方が良いと思う。
實せしむること無く 虚せしむること無かれ。不足を損じ而して有餘を益す、是を甚病と謂う。 病益す甚し。
(校注) *ここは読んで字のごとくである。病態というものは、からだの深さだけでは無くて、虚実というものを考えなければいけない。これは私が思うに中国の古代医学の非常に大きな特徴であると思う。今は「虚実を考えている」と言うかもしれないけれど、虚実なんか考えてはいないのが現状であろう。虚実を考えるには、それを考える手段が必要である。それは症状から見るか、あるいは脈状からみるかであるが虚実の判別が要る。虚実には陰陽虚実もあるし、五行の虚実もある。ここで言っていることは大原則で、実を実せしめること、虚を虚せしめるということをしてはいけない、不足を損じたり、有余を増すことをしてはいけない、と同じ意味のことをわざわざ繰り返して言っている。そうすることによって病気というものは有余や不足、虚や実を判定することが大事だと言っている。
*虚実に対して正確な補瀉をしなくてはいけないとは『素問』『靈樞』『難經』まで繰り返し言われていることだ。施術というものは必ず虚実の判定にもとづいて行うべきだ、というのが古い時代の中国医学の特徴なのではないか。
五脈を取る者は死し、三脈を取る者は恇す。
(校注)
同書「小鍼解(小針解)」はこのように言う。「五脈を取る者は死す」とは病、中氣不足に在れば、但だ針を用いて盡く大いに其(そ)の諸の陰の脈を寫すを言う。三陽之脈を取るとは、唯だ、盡く三陽之氣を寫し、病人をして恇然として復せざらしむるを言う。
*五脈と三脈というものは陰の脈、陽の脈と解釈するのが、今までの解釈の仕方だったことがわかる。
*五藏の脈というものを瀉法すると死んでしまう。藏(蔵)の氣を虚すからである。三陽の脈を取る、つまり瀉法してしまうと病人は衰弱してしまう。陰の気を取ると死んでしまう。陽の気を取るとからだが衰えてしまうというような意味に取っているようだ。
奪陰の者は死し、 奪陽(だつよう)の者は狂す。
(校注)
同書「小鍼解(小針解)」はこのように言う。
「奪陰の者は死す」とは尺の五里五往なる者を取るを言う。「奪陽の者は狂す」とは正言を言う。
*この文章の意味がよくわからない。(*河北醫学院校釋『靈樞經校釋』上冊75頁に「正言」を注して「周學海曰;“‘ 正 ’字、疑當作 ‘ 狂 ’”」云々とある)
○奪陰者死(奪陰の者は死す)
郭靄春氏はこのように記す。
【校勘】郭靄春8頁云、「死:《甲乙》卷五第四 “ 死 ” 作 “ 厥 ”。」
*『鍼灸甲乙經(甲乙經)』では「死す」では無くて「厥す」である。「厥す」とは、めぐるべき気が、ちゃんとめぐらないことを言う。
【訓詁】郭靄春8頁云、「奪: 王冰(おうひょう)曰:“ 奪謂精氣減少如奪去也 ”」
(*王冰曰く「奪」は精氣が減少して奪われてしまったのをいう)
*陰の気がなくなったら死んでしまう。陽の気は心気に関係しているので、それがなくなったら精神的な安定性を失うと、解釈するだけで納得はいくような気がする。
*講義の中で訓詁、 押韻、 校勘という言葉を出すが皆さん、これに慣れてもらいたい。校勘や押韻という言葉を何度も聴いていると、誰でもその感じが身についていく。
【さらに勉強したい方のために】
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
(https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp)
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8月8日(日)は年に一度の八月特別講義です。(霊枢勉強会第4回は9月12日【日】です)こちらにつきましても当会のホームページ(https://www.osaka-hari9.jp)をご覧ください。
(霊枢のテキストは現在5冊在庫あり、受講申し込み時お問い合わせください)
素問勉強会世話人
東大阪地域 松本政己