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素問勉強会12月その2 疏五過論篇(そごかろんへん)第七十七2020.07.06

素問勉強会12月その2
 Fresh 2020年2月号掲載№286の続編
*新型コロナウィルス感染症予防のため5月10日(日)に予定されていた勉強会が休講となりました。そこで、昨年12月8日(日)のお話から、前回掲載分記事で載せきれなかった部分を「蔵出し」いたします。
 
素問勉強会
講師: 日本鍼灸研究会代表 篠原 孝市 先生
日時: 令和元年 12月 8日(日) 
会場: 大阪府鍼灸師会館3階  出席者:会員9名 一般15名 学生3名
 
 
・医道の日本 2019年12月号 『臨床に活かす古典№91 「明堂」その1』のお話より(その2)
 
中国の鍼灸、日本の鍼灸も同様であるが基本は主治病証での運用が主体である。これは得てして特効穴治療になりやすい。『明堂』の大きな欠点は診断がないということである。どんな診断をしているか全くわからない。そして虚実がない。部分的に少しは書いてないわけでは無いが虚実は無い。鍼灸の治療は虚実の補瀉だと言うが、それが出来ようもない。そこに鍼を刺せば良いだけというのでは補うのか瀉すのかがわからない。そういう欠点がある。
 
主治病症というのは経験の蓄積で、これが分かればOKだと考えるのは大間違いである。虚構の先に来るものは、やはり臨床的な工夫というものが必要ではないか。最近までの三十年ほど『明堂』の研究を何人もの人が試みたが、臨床的なものに近づけようとしているのは愛媛東医研(愛媛県立中央病院東洋医学研究所)だけかもしれない。そういう意思を持って自分たちの立場で実践していることは立派だと思う。
 
『明堂』の復元は難しいことでは無い。時間があれば誰にも出来る。だけど問題になるのはその後なのではないか。臨床に使うという時は二段階も三段階も工夫しないと使えない。
具体的に言えば、たとえば腰痛の時に、どういう条件の時にこのつぼを使い、また他の条件の時にはこのつぼを使うという診断が必要だということだ。診断が何もないので、その問題が最後に出てくるように思う。
 
 
 
疏五過論篇(そごかろんへん)第七十七
(診断・治療上の五つの過ち 篇第七十七)
 
第八章
 
(やまい)()するの道、()()(たから)()す。(めぐ)りて()の理を求む。()れを求むるに()ざれば、()、表裏に在り。
(訳文)
はじめに「氣」というものについてよく考えてみる。そして根本である気の在り方というものについて、充分わからない場合は、今度は病が表と裏のどちらにあるかという事から診察する。
 
(解説)
「過、表裏に在り」を直訳すれば「あやまり、というのは表裏にある」となる。
 
 
(すう)を守り、治に()りて、(しゅ)の理を失うこと無し。()()の術を行えば、身を終るまで(あや)うからず。
(現代語訳)
治療のばあいには、気血の多少や刺鍼の深さの程度を考慮し、兪穴の主治を誤まらなければ、よく治療を行って終身失敗することがない。(『世界の名著/中国の科學』,中央公論社発行より)
(*この訳文は、本文を訳すのでは無く、王冰の注をそのまま訳していることがわかる)
 
(解説)
(しゅ):つぼのこと
 
王冰(おうひょう)という人は、このように言う。
「數を守り」とは血気の多少や鍼の刺し方の深さのことだ。「治に()る」とは、つぼの主治のことだ。
血気の多少や、それに伴う鍼の深さを守り、つぼのことをちゃんと理解すれば危ういことは無い。
 
(ちょう)(かい)(ひん)はこんなふうに言う。
表裏陰陽、経絡、蔵府というものには、ある理論(數・数)がある。そういう理論をちゃんとつかんでいなければならない。「兪の理」とは全身のつぼのある場所や効能のことだ。「殆」は「危うい」ということだ。
 
 
(しゅ)の理を知らざれば、五藏菀(ごぞううつ)(じゅく)し、(よう)、六府に(はっ)す。
(訳文)
つぼの事がよくわかっていない場合は、体の内側では五蔵の気が(うっ)して灼熱の状態となる。体の浅い部分には(よう)、できものが出来る。
 
(解説)
王冰の注
(うつ)」は「(しゃく)」である。「熟」は「熱」である。五蔵が灼熱して六府がこれを受ければ、陽熱、相迫りて熱の過ぎるところ、すなわち(よう)を為す。
 
張介賓の注
(うつ)」は「積」である。兪穴の理を知らずして、みだりに刺灸施せば、すなわち五蔵が菀積(うっしゃく)して、その熱癰(ねつよう)すなわち六府に発す。これまた上文、ゆえに敗結を(やぶ)(りゅう)(はく)、陽に帰す。これを言う。
 
 
病を診ること(つまび)らか(つまびらか)ならざる、()れを常を失すと()う。
(現代語訳)
病氣の診察をして、その病態を明確にできないのは大きな過失といわねばならない。(『黄帝内経素問訳注』家本誠一著,医道の日本社発行より)
 
 
(つつし)みて此の治を守らんとならば、經と(あい)()かす。
(現代語訳)
謹んでこの治療原則に依って診察を行うならば、經典(醫学(いがく)の教科書)の意味する所も一層明らかになるであろう。(『黄帝内経素問訳注』家本誠一著,医道の日本社発行より)
 
(解説)
王冰はこのように注を入れている。
内気にもとづいて、つぼの在り方というものを求めるという意味なのだ。
 
張介賓の注
もし、(つまび)らかに診察を加えなければ必ず経常中正の道を失い、ゆえに(つつし)んで治法を守らんと(ほっ)するものは、経旨を求めて以て、相明かにするにあり。経はすなわち、下の文にある上經下經になる。
 
 
上經下經(じょうきょうげきょう)揆度(きど)陰陽(いんよう)奇恒五中(きこうごちゅう)、決するに明堂を以てし、終始に(つまび)らかにせば、(もっ)横行(おうこう)()し。
(現代語訳)
『上經』『下經』に見える揆度、陰陽、奇恒、五中などの諸篇を學ぶことによって、明堂の部分が示す症候を決定し、病氣の經過を詳しく知り、自由にその治療技術を發揮することができる。(『世界の名著/中国の科學』,中央公論社発行より)
 
(解説)
上經下經 : 本の名前、『素問』「(びょう)能論(たいろん)篇第四十六」に出てくる。
*病能論の読みは「びょうのうろん」では無く「びょうたいろん」である。
 
張介賓はこのように言う。
「上經」「下經」とは(いにしえ)の経の名前である。(びょう)能論(たいろん)にいう。「上經とは気の天に通ずるをいう(上經は自然現象みたいなものを論じた本である)。下經とは病の変化をいう(下經は病理の本である)。「揆度」というのはこれを切度する。「奇恒」とは奇病をいうなり。「五中」とは五内(五蔵)なり。「明堂」とは面(顔)の鼻の部位なり。「終始」とは『霊枢』の篇名なり。およそ病を診る者は、よく「上經」「下經」の理を明らかにし、もって陰陽を揆度(きたく)し、よく奇恒五中の色を察し、しかして明堂に決す。
能審二脈候鍼刺之法於終始等篇之義一(*『類經』のテキストとなる和刻本の返り点が不明なので原文のままで置く)
それかくの如きなる、すなわち心一貫して通じ、応用(きわ)まりならず。目牛まったく無し。萬挙萬當(まんきょまんどう)(何をやってもすべてうまく行く)。かくのごとくになると高明天下に、敵するもの無し。ゆえに横行すべし。
 
『素問』の森を歩いてみませんか。新型コロナウィルス感染予防のため休講となる場合があります。当会ホームページは随時更新されておりますので、そちらでご確認ねがいます。平常時は、毎月第二日曜、午前10時から12時まで大阪府鍼灸師会館3階です。『素問』の森を歩いていたら、自然に『霊枢』の森へ続いていきます。
 
(素問勉強会世話人  東大阪地域 松本政己)