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素問

令和元年11月10日(日)素問勉強会 / 疏五過論篇(そごかろんへん)第七十七2019.12.31

素問勉強会
講師:日本鍼灸研究会代表 篠原 孝市 先生
日時: 令和元年 11月 10日(日) 
会場: 大阪府鍼灸師会館 3階  出席者: 会員8名  一般12名   
 
 
・医道の日本 2019年10月号・11月号 『臨床に活かす古典№89・90 難経その4・その5』のお話より
 
(経脈の場合も他との関係性を考えた時)一つの経脈だけわかっても駄目なのである。全体の経脈の関係がわからなければ駄目なのである。その為には全体がわかる関係理論が必要である。
関係理論には何があるだろうか。『難経』の「六十九難」と「七十五難」ぐらいか。
一つの経脈のことがわかった。しかしそれだけでは無くて全体を視る必要がある。なぜ全体を視る必要があるのかというと、これは私の考えであるが一つの経脈を使っても効かないということがわかっているからだ。
 
肺経の虚証では、肺を補うだけでは駄目だという事はわかっている。肺を補っても駄目だけれど、肺(金)と脾(土)を補うとOKであったり、肝(木)を瀉するとOKだという事はある。つまり一つの経絡に対して、そのバリエーションが山ほどある。それを気づかせてくれたのが「六十九難」の記述であった。
「六十九難」は信仰的な観念の対象ではなく、一つの経脈がわかるだけでは駄目でいくつもの経脈の構造をつかむ為の方法、そのためにあったものと考えている。
 
「七十五難」に書かれていることは色んな解釈が出来るように書いてある。定則で「六十九難」がある。肺が虚していれば脾を補えば良い。つまりその背景に肝が実しているということがある。そういう構造がある。ところが「七十五難」に書かれていることは違う。肺(金)が虚している、そして肝(木)が実している。そういう構造の時、本来は肺を補わなければいけない、又は肺・脾を補わなければならないと視るべきなのに、腎(水)を補って心(火)を瀉せば良いと書いてある。「肺(金)が弱っているのに、腎(水)を使って何になるのか」と考えさせられる、そんな内容が「七十五難」である。
これを考えてみると色々な解釈が出来る。色々な解釈が出来るように書いてある。
私の今の考え方はこのようなものだ。たとえば肺経の虚証で、肺経一つだけを使ったが駄目、肺経と脾経の二つだけを使ったが駄目で、肺・胆だけでも肺・胆・小腸だけでも駄目、肺を補って肝を瀉すだけでも駄目であった。もちろん肺を補って大腸を瀉すのも駄目である。
肺経虚証で肺を使っても駄目な場合がある。それは肺経虚証の向こう側があるからだ。肺経虚証は、始め体が冷えている状態から次にのどが痛くなる状態に変わるように、病態の転化がある。つまり病態の転化というものを可能性として書いてある。病態の転化はしばしば起こるものでは無い。しばしば有れば定則にしなければならないが、そうでは無い。つまり一つの経があるけれど一つの経ですまない、一つの経ですまないだけでは無くて、その経が病気であるにも関わらず別の経に病気が移ったと視て治療しなければならない時があり、これがおそらく「七十五難」となったのではないかと思う。
 
 
 
疏五過論篇(そごかろんへん)第七十七
 
第六章
 
凡そ(およそ)診者(しんじゃ)、必ず終始を知り、餘緒(よしょ)を知ること有り。脈を切し(せっし)名を問い、當に(まさに)男女を合す(がっす)べし。
(訳文)
診察する者は、必ず病の経過を知り、細々とした症状を知りなさい。脈を診て病名の確定をする。最後に考慮すべきは、病の土台にある男女の別である。
 
(解説)
餘緒: ものごとの末端、末尾のこと。ここでは最後の症状を指していると考える。
 
切す(せっす): ここではぴったりとくっ付けるという意味である。
 
名を問う: 色々な説がある。一つ目は病症の名前を問うというもの、二つ目は患者の社会的な地位や仕事の内容を問うというもの、ここでは病名の確定の方が良いように思う。
 
 
離絶結(りぜつうっけつ)、憂恐喜怒(ゆうきょうきど)すれば、五藏空虚し、血氣(けっき)、守りを離る。工、知ること能わず(あたわず)。何の術をか語らん。
(訳文)
人と離別して生じたストレス、また憂えたり、恐がったり、喜んだり、怒ったりの感情があると、五蔵の気が虚してしまう。血をともなって体の外側を巡る気は、その防衛力を失う。こういうことを医者が知らないのであれば、どんな内容を語れば良いのだろうか。
 
(解説)
血気: 気と血は一緒になって、初めて体の中を動く。体を切って血が外に出ると、気が離れるので血は動く力を失う。血気は、体の外側を巡って、体の防衛をしている。
 
 
嘗し(むかし)富みて大いに傷る(やぶる)。筋を斬ち(たち)脈を絶つ。身體(しんたい)復た(また)行けども、澤(たく)をして息せ(そくせ)ざらしむ。
(訳文)
昔は金持ちであったが何らかの理由で転落しストレスを被った者は、体の中で筋や脈の機能が充分に働かなくなる。体の内側を消耗したとしても、体はまた動くようになるけれど、その根本を支える精気は消耗しきっている。
 
 
故に(ゆえに)傷敗結留(しょうはいけつりゅう)して、薄れば(せまれば)陽に歸して(きして)膿み(うみ)、積めば寒炅(かんけい)す。
(訳文)
体が消耗したり傷んだりして体の中で気が滞り、そんな状態において気が集まって来ると、体の陽の部分に膿を生じる。それがもっともっと重なってくると熱かったり、寒かったりする状態が生じてしまう。
 
(解説)
王冰(おうひょう)は、このように注を入れる。
「陽」とは諸々の陽脈六府をいうのである。「炅(けい)」とは熱をいう。分に非ずして筋脈の気を傷敗すれば血気内結し、留まりて去らざれば陽脈にせまりて、化して膿となり、久しければ腹中に積んで、すなわち外は寒熱を為す。
 
 
粗工(そこう)、之れを(これを)治すれば、亟(しばしば)陰陽を刺し、身體(しんたい)解散し、四支轉筋(ししてんきん)す。死日(しじつ)、期有り。
(訳文)
やぶ医者という者が治療をしようとして、どんどんと陰陽の経絡を刺していく内に、体を壊してしまって、そして転筋(こむら返り様症状)も起こるようになる。いつ死んでもおかしくはない。
 
(解説)
張介賓(ちょう かいひん)の注: 麤工(そこう,下手な医者)というのはこういう事を知らない。寒熱の原因は膿が積んだ事にあるのだ。膿が積む症状は、労傷(ろうしょう・体の疲れ)があるからだ。それを知らないで一般的な治療法、(常法)を使う。急ぎ陰陽を刺し、どんどん気を奪う。そして血気を復た(また)傷ってしまう。ゆえに身体解散し、四肢転筋し、死日に期あり。これを下手な医者の間違った治療でないというのだろうか。
 
 
醫、明か(あきらか)なること能わざれば(あたわざれば)、發する(はっする)所を問わず、唯だ(ただ)死日のみを言う。亦た(また)粗工(そこう)と爲す(なす)。此れ(これ)治の五過なり。
(訳文)
医者が診察にとって大事なことを準備せず、起こった出来事について色々な問題にせず、ただ「寿命です」というのみである。これもまた下手な医者ではないか。これが治療のまちがいの五つ目である。
 
 
 
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(素問勉強会世話人  東大阪地域 松本政己)