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素問

平成28年8月素問勉強会/特別講義「『明堂(めいどう)』の意義と臨床2016.09.07

●日 時 : 平成28年8月14日(日) ●会 場 : 大阪府鍼灸師会館 3階 
●講 師 : 日本鍼灸研究会代表 篠原 孝市 先生

◆はじめに
 『明堂(めいどう)』というのは経穴の本である。皆さんがご存じで、江戸時代
以来一番有名な経穴の本は、『十四經發揮(じゅうしけいはっき)』(1341年)
であろう。これは経絡と経穴に関する本である。これに対して1300年ほど古い
と思われる経穴書が、『明堂』という本である。『素問』や『靈樞(れいすう)』
に対して『難經(なんぎょう)』があるが、この『難經』と対置されるべき本が『明
堂』である。
 
 『素問』『靈樞(れいすう)』『明堂』、それから『史記』の「扁鵲倉公伝(へ
んじゃくそうこうでん)」の向こう側に何があるかというと、私の勝手な解釈では
あるが、その向こう側には現代医学があると思う。伝統医学から現代医学へ通り抜
けるには、『難經』の陰陽五行説の世界というのが邪魔なのである。そして『難經』
以降の世界も邪魔なのである。『素問』『霊枢』『史記』の扁鵲倉公伝というのは、
その向こう側に行くと現代医学と握手出来るという部分がかなり有った、という風
に私は思っている。

◆現存の中国古医書から見た『明堂』
 『素問』や『鍼經(九巻)』(今の『靈樞』)というのは、今から2000年以
上前に出てきたものである。おそらく前漢(前206~後8年)の頃だと思う。後
漢(25~220年)の時代に『素問』や『靈樞』に続いて、『明堂』『難經』『傷
寒雜病論(しょうかんざつびょうろん)』という書物が出てくる。『傷寒雜病論』は、
『素問』や『靈樞』から直接出てきたものでは無い。『素問』や『靈樞』からは、
『明堂』と『難經』という本が出てきた。

 『明堂』と『難經』というのは、非常に性格の違ったものである。経絡経穴のこ
とで言えば、『素問』や『靈樞(れいすう)』に書いてあるのは経穴の方が少ない。
主に経脈が中心に書かれている。現在は『素問』『靈樞』と鍼灸書を分けるが、『素
問』『靈樞』と鍼灸書が完全に分かれるのは宋代(北宋960~1126年,南宋
1127~1279年)以降である。隋・唐代(隋581~617年,唐618~
907年)までは、『素問』『靈樞』は鍼灸書であった。

 『素問』『靈樞(れいすう)』と『明堂』『難經』が大きく違うのは、『素問』
『靈樞』が経脈を中心にしたものであった
のに対して、『明堂』は純然たる経脈
中の、あるいは特定の部位(頭、胴
体)の中でどういう穴が有るかということを述
べた、という事である。『明堂』は、穴を経脈と部位別に分裂したという点で全然
違うものである。

 『難經』は、『素問』『靈樞(れいすう)』に書かれている色んなものを振り捨
てた。残ったものは「五蔵(五臓)」と「経脈」である。経脈の上に奇経というも
のを作り上げて、解剖学的な所見の「腸胃(ちょうい)」をくっつけた。つぼを全
部運用するのでは無くて、手足の五要穴を重要視するという点で、『素問』『靈樞』
とは違っている。

 『明堂』は349穴、大体1年間の日数に近い数に合わせて、すべてのつぼの場所
と、そのつぼの主治、禁鍼、禁灸と鍼の刺入する深さ、灸の壮数をまとめて書いた
ものである。

 『難經』というのは、それとは全く性格を異にして、五蔵(五臓)論的に、ある
いは五行論的に手足の五要穴を使って経脈を運用する。それによって治療するもの
である。
『難經』と『明堂』は相当違った方向に行く。『難經』と『明堂』がその
後の医学
の方向性を確立したと言っていいと思う。

 ただ『明堂』というのはすぐに無くなる。三国時代(220~280年)に『甲
乙經(こういつきょう)』という本が出来る。『素問』『鍼經(九巻)』(靈樞)、
『明堂孔穴鍼灸知要(めいどうこうけつしんきゅうちよう)』という本から取った
ものを入れて、『甲乙經』が出来上がる。『甲乙經』の著者にしてみれば、『明堂』
というものの路線こそが『素問』『靈樞』の後を受けたもの、という認識があった
と思う。(実は『難經』も引用されているので一概にはそう言えないのでは有るが)

 片方では『難經』という本は、脈診の方の『脈經(みゃくきょう)』に影響を与
える。

 六朝時代というのがあり、後漢(25~220年)が崩壊して、後漢の後を受け
た魏(ぎ)も崩壊して、いわゆる混乱した時代となる。北方民族が攻めてきて、漢
民族は揚子江の北から南に逃げる。北の方は北方民族の支配、南の方にとりあえず
漢民族の王朝を作った。医学でいえばあるいは他の文化で
いえば、受け継ぐ人も無
ければ文献も無いという状態になった。

 『素問』や『霊枢』や『難経』などがよくわからないものになったのは中国が南
に移ってしまったという事が決定的だと思う。何も無くなったのである。

 六朝時代に古い時代のものは、ほぼ終わったといっても良い。現在『素問』『鍼
經(九巻)』(靈樞)と『甲乙經』と『難經』が、細々と残るのみである。

 『明堂』という本の主体は無くなっている。『明堂』という名前の経穴書は400
年代にも出来るが、大事なのは隋・唐時代(隋581~617年,唐618~907
年)になってからである。やっと六朝時代の混乱を修復して、黄河と揚子江の間(中
原:ちゅうげん)に文化が戻ってくる。王朝が一応確立して地域社会が安定した時に、
初めてそこで医学的な文化も問題になる。皆が好き勝手なことをいっぱい言うので、
経穴の学というのは有っても混乱していた。鍼灸の体系的なものが何も無くなって、
ここを使えばあそこに効くというような話ばかりになってしまった。しかも決定的だ
ったのは鍼
の文化が無くなっていた。お灸の文化はかろうじて残っていたが、鍼の文
化は消えてしまって、お灸と経穴しか鍼灸で残っていなかった。しかしまあ経穴で何
とかしなければいけないという事で、古い『明堂』を引っ張り出してきて作ったのが
600年代初期の『黄帝明堂經三巻』楊玄操(ようげんそう)撰注である。この本は
今に残っていない。楊玄操という唐の初期の人は、『明堂』と『難經』に注を付けた。
これは非常に重要なことである。

 600年代前半~半ば?に書かれた孫思邈(そんしばく)著、『千金方(せんきん
ぽう)』『千金翼方(せんきんよくほう)』も『明堂』の流れのものである。

 600年代後半に楊上善(ようじょうぜん)という人が、『黄帝内經明堂類成(こ
うていだいけい めいどうるいせい)』という本を書いている。十三巻の内、第一巻
(手太陰、日本に残っていた)のみ現存する。楊上善はこの本の他に、『黄帝内經太
素(こうていだいけいたいそ)』という本を書いている。この本は、『素問』『靈樞
(れいすう)』を合わせて注をつけたものである。

 752年に書かれた『外臺秘要方(げだいひようほう)』の三十九巻が『甲乙經』
の異本と言われている。

 ここまでが、中国で今残っている書物の中に出ている『明堂』ということになる。

 日本では丹波康頼(たんばやすより)が、984年に『醫心方(いしんぽう)』の
第二巻の中に、楊上善『黄帝内經明堂類成』を抜粋している。膨大な引用がされてい
るので、楊上善著の大略がわかる。(現存する楊上善の『黄帝内經明堂類成』は十三
巻のうち第一巻だけである)

 『甲乙經』『千金方』『千金翼方』、ここに引かれている『明堂』の文章は、手足
は経脈別、胴体と頭は部位別に編集している。しかし唐代(618~907年)に出
た楊上善の『黄帝内經明堂類成』や、『外臺秘要方(げだいひようほう)』はすべて
十二経脈別に分類している。これをみると、古い『明堂』の形態がどんなものであっ
たかがよくわからない。
北宋時代(960~1126年)の段階で、『明堂』には二種類のテキストが有った
という事がわかる。一つは楊上善注『黄帝内經明堂類成』十三巻、もう一つはおそら
くは楊玄操(ようげんそう)の注をつけたものと同じ三巻本の『黄帝明堂經』である。

 1027年に王惟一(おういいつ)撰『銅人腧穴鍼灸図経(どうじんしゅけつしん
きゅうずけい)』が出ると、古い経穴書が不要となった。この本は三巻本で、上巻は
全部の経穴を十二経脈別に分けるという作業をしている。中巻は頭や胸、背中など部
位別に経穴を並べている。下巻では、手足の十二経脈別に経穴を並べてある。

 全ての経穴を経脈別にしたのは、752年の『外臺秘要方(げだいひようほう)』、
そして『銅人腧穴鍼灸図経』の上巻、そして1118年の『聖濟總録(せいさいそう
ろく)』である。今は誰でも経穴というのは経脈別であるのが当たり前だと思ってい
るが、そうでは無い。やっとすべての経穴が、一応現在に近い形で経脈別となるのが、
1118年の『聖濟總録』からである。

しかし、その反動で1180~1195年に王執中(おうしっちゅう)が著した『針
灸資生經(しんきゅうしせいきょう)』は、手足が経脈別、胴体は部位別に経穴を配
当してある。(これは『甲乙經』『千金方』『千金翼方』と同じである)

 この手足が経脈別、胴体は部位別に経穴を配当するというやり方がすべて無くなる
のが、滑伯仁の『十四経発揮(じゅうしけいはっき)』(1341年)である。すべ
ての経穴が、経脈に所属しているという風になったのは、700年ぐらい前のこの本
からで、ここから今の経穴学が出来た。そうすると、ここで議論が起こる。元々すべ
ての経脈の上に経穴があったと考える人と、古くは胴体の部分は部位別で、手足は経
脈別だったと考える人、この二つの見識のいずれが正しいかという議論が起こるので
ある。

*西暦は角川書店刊『角川新字源』による

                 (素問勉強会世話人  東大阪地域 松本 政己)